恋についてすこし考えました。折口信夫を手掛かりに

―恋ごころ抱く我がむね風の吹くもとむるものよゆめゆめなこそ―啓―

歌人で万葉研究者、民俗学者の折口信夫は相聞歌(恋歌のことです)と挽歌(死者を悼む歌です)は同じだというのです。その理由は「恋」という言葉はもともと「乞ふ(こう)」からきているので、愛しい人の心を「乞ふ」のも、亡き親しい人を悼み、その存在を「乞ふ」のも同じこと、魂を呼んでいるのだ、というのです。

これはたぶん神々にも同じことが言えるのだと思います。日本はアニミズム的宗教観が強く、すべてのものに神性が宿っていると考えます。そしてその神々はあるものに宿るのです。つまり精霊、魂がそこに入り込むのです。神社の本殿のご神体というのは神像であることももちろん多いのですが、鏡であったり、玉のような形をした石であることもまた多いのです。これらは神が宿る「依代」と考えられます。これらには神々を人々が呼び、拝殿にて祈るのです。つまり日本の神々は精霊、神性がただよい、一時的に定着しているのです。それが来てくださることを「乞ふ」のです。

奈良県の二上山
非業の死を遂げた大津皇子を乞う姉の
大伯皇女、その哀切極まりない歌が万葉集には
乗っています。

そう考えると、恋にしろ、死者への悼みにしろ、神々への思いにしてもすべてを求めることはできません。なにしろ相手に来てもらうのですから。

来てもらい、自らの心を打ち明けてシンクロさせる、または別離する。それらを決めていくのです。

生者、死者、神仏たちをお呼びしてシンクロすることを願い探すのが日本の「恋」なのではないでしょうか?

 

花には花の精霊が宿っているのだと思うのです。

すべてを包むこと、すべてを分かち合うことができないのが「恋」なのです。だから恋は少し悲しげなのでしょう。

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