祈りってパワー増幅技だと思うのです

―旅先の社に詣で境内に郷愁抱く来たことあらねど―  啓

 

私は神社仏閣が大好きでして、軽いトレッキング要素が加わったらもうたまらないですね。そんなですから旅に行くと230キロくらい歩いて、古寺やまでら八百万の神々に参拝するのです。

ふるびたお寺などで仏像に、山の中腹にある神社の拝殿に向かい手を合わせるのはとても心地よいもので、心身ともに清い水で晒してもらったような心持になります。

奈良の唐招提寺です。ここは時間が
静かに流れる不思議な空間です。
なぜかと考えるとその時、神仏や自然、サムシンググレートに対しての祈りは感謝と利他のことが多くなるからだと気づきました。

さんざん歩き、その土地土地の様子を見つつ花を愛で、風景に遊ぶと自然の雄大さと怖さ、美しさがわかり、そこにいる、そこに住む人々への愛おしさがにじむように胸に湧き上がるのです。そうした気持ちになって寺
社仏閣で祈りをささげると、自然に感謝と利他のことになります。

鎌倉の大仏様。この迫力に圧倒
されながら祈るのもまた乙なものです。
そしてそれがまた実に心地よいのです。祈りというのは洋の東西を問わず手を組む、手を合わせます。あれは自分を一つの完成体、自然のミニチュアとしての表現だと私は思っています。その中で祈りを唱えれば(祈りというのは「意」を「乗せる」というのが語源の有力な説の一つだそうです)唱えた祈りが自分の中で循環して、自らの糧、血肉となることでしょう。

祈りはだから「魂、思考のパワー増幅技」なのです。

そして呪いもまた祈りの一形態です。呪いを増幅させれば結果はおのずとわかります。

だから私たちは毎日すこしずつ自分を磨いていき、楽しく過ごして、たまに悲しみを抱いて人の痛みを知ることが大切なのです。

自分を好きになって、自然や関わった人たちを愛おしく思えば何かのはずみで祈りをささげるときに沢の一滴の水のような心、魂があらわれて大きく育つのだと思います。

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